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zoom RSS 青函連絡船の思い出と我が人生航路 398

<<   作成日時 : 2017/04/12 15:53   >>

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  新針路



国鉄から分割民営化されJRグループが発足して30年を超えた。それぞれ状況が違っていたが、全体的に過剰人員の傾向があった。経営安定基金が交付されるJR三島会社、特に経営の苦しいJR北海道では、人員の合理化が必要不可欠だった。



船員として採用され連絡船がなくなったから、いつまでもしがみつきたくなかった。ほとんど船員仲間が外へ出ざるを得ず、その考えは強かった。

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再就職も直ちに右から左というわけにいかず、1年ぐらい休むつもりだった。具体的に進み始めた時に、少し信義的な整理しておくことがあった。



まさに行こうと考えていた矢先に、そこを退職して函館に戻った人がいた。一航会でお世話になり、こころやすく尊敬する他校の先輩の一人だった。


たまたま同時期になっただけで、ほかの件は全く無関係だった。しかし過去の人間関係から、単なる運命のいたずらと割切れず、経緯を説明し快く分ってくれ安心した。



それまでも帰函の折に、同じ船長会メンバーに連絡し、一献の機会も何度かあり、お互い考えはよく分かりあっていた。


青函連絡船廃止後に各地へ散っていった船員で、JR函館支社へ寄るか連絡もらえば、その人と縁のある仲間が集まり、ささやかな激励をしていた。



もうひとつの気がかりな点は、その3年前ここへ大勢が入社したが、名実とも最も優秀メンバーの一人と、誰の眼にも映ったはずだ。そのような人が辞めるのに、果たして自分がやっていけるか不安もあった。


頭の考えや心の思いとは別に、現実は動き始めると歯車が回るように、前号の高松駅の第一歩となった。


正式に採用となり東京本部で、一週間ほど初任者研修があった。全員が中途採用で修羅場をくぐって来たような、まさに7人の侍と云った感じだった。年齢は真ん中の4番目で、前職は造船所2人に船員5人の構成だった。


船員を細かく見れば、船長4人、エンジニア1人で、更に一時ジャパンラインに籍をおいた3人と、複数の関連もあった。

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世の中はせまいもので、ある青函連絡船の船長をよく知る人がいた。また十和田丸がジャパニーズドリームに改造された後に、横浜〜神戸間を乗組員として乗船の人には驚いた。


このような調子で昼間の研修の印象は薄いが、アフター5の課外活動に熱心で、酒の切れる日は無かった。中に翌朝もローリングや、スターボードにヒール気味の強者もいた。どうもお偉方は手をやかれ、時に苦言も伝わり、社内歴に残る劣等グループ?かも分からない。



高松支部に配属になり3日後には、職場の慰安旅行の予定が組まれていた。通常勤務を終えた金曜の夜行便、関西汽船あいぼり丸で別府に向かった。別府温泉や耶馬渓巡りなど、久しぶりの九州も、大きな被害をもたらした台風19号の爪痕が印象に残っている。



職場の人達の名前と顔が分からない時期の、一泊三日(一日船中泊)の慰安旅行も、周りの温かい対応で楽しく過ごせ、小倉から新幹線で帰途についた。



同月の下旬に松山市の道後温泉で、中四国地区ブロック会議があり、出席のチャンスを貰った。各支部から3人前後だったが、新人の顔見世とあいさつ代わりを兼ねさせたのだろう。


青函連絡船から3年前に入った人達とも再会し、なつかしい昔話や参考になる話題もあった、いつ何処でもしっかりしたコースが大切で、人生航路も同じく循環している様だった。


この会議に先立ち忘れられないことがあった。交通手段は経費や利便などから、業務用車の乗合わせが慣習だった。日常の業務の内容からも、運転は重要なファクターの一つだった。


高松支部に所用の本部の部長も支部長と同乗し、当然ながら私が運転を担当した。初めての方々と一緒で少し緊張はあったが、運転そのものは好きだし、それなりの自信もあった。別の職員たちはもう1台の車に分乗、ふたり交互に運転したようだった。



高松松山間の高速道路は全線で開通しておらず、確か善通寺ICで入り伊予西条ICから、一般国道11号線を走った。ナビも無い時代だが、迷わず無事に道後へ到着した。やはり人を乗せると、余計に神経を使い疲れるからホッとした。



翌日は土曜日で午前中に会議が終わり、現在ならダメだろうが当時は、復路については勤務時間外で、ある程度の自由裁量があったようだ。


玉野支部の人も便乗して、2台一緒に面河渓を見て帰ることになった。面河渓の見学までは良かったが、石鎚スカイライン(当時は有料道路)ゲート前で止まり、後のルートをみんなで相談し、とりあえず通過した。



ここを通過すると吸い込まれるよう、瓶ケ森林道へ進むしかなかった。もちろん標高1000メートルを超えるこのルートは初めてで、暗くなり徐々に霧が出て見通しが悪くなり、さすがに不安になった。


私が先頭車で後続は運転が達者な若手チームなので、バックミラーで見ながら進むだけだった。だんだん状況は悪くなり、ほとんど視界がゼロに近づき恐怖感が増した。

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    のちに訪れた瓶ヶ森林道(天候が良いと素晴らしいが)


片側は絶壁でガードレールもなく、ぐるぐる沢を回りエンドレスで、何か地獄の1丁目に向かう感じがした。同乗の1人は朗らかな性格が、だんだん言葉がなくなり沈黙が長くなった。


もはや運転技術の範疇を超え、必死でハンドルやブレーキの操作をするしかなかった。もちろんこの悪条件を超えての対向車は無く、これほど厳しいドライブは他になかったと振り返っている。

この時は入社したばかりで何の裁量も無かったが、成り行きから危ない道を選ぶ結果になった、しかし何かあれば運転していた自分に責任がある。世の中には本当にちょっとしたことから、とんでもないことになるのも不思議ではないだろう。


悪戦苦闘の末に国道194号線へ出た時は、本当に助かったと一安心だった。更に高速に入る前に休憩、みんなで最後までの安全運転を誓い合った。


この瓶ケ森林道付近は紅葉の名所で、景色もよく人気があり、その後にたびたび訪れるようになったが、道路も整備が進みあれほどの危険は薄れたようだ。何よりも良い天候に見物してこそ良い結果になる。


それまでも松山は縁が深かったが、再スタートから松山ひいては愛媛県、その地の人達との、素晴らしい絆のさきがけとなったのだろう。


この職場も何か波乱の予感をせおいながら、新しい針路に変針となりそうだった。

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コメント(2件)

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連絡船が無くなり、船員が色々な職場へと転出して、 towadamaru7も退職されて新しい職場へと変わられて色々有ったようですが、全て良好に過ぎた様に文面からは感じられました。瓶が森林道のドライブは相当(こんな簡単な表現では駄目でしょうが)苦労されたようで大変でしたね。
mukasinohito
2017/05/08 11:31
確かに職場が無くなることは、何処の会社も大変なことでしょう。
しかし青函も宇高も国鉄連絡船の主要航路は、青函トンネルと瀬戸大橋の開通時期と国鉄民営化がほぼ1年違いでした。
このため大局的には、国鉄改革法に則り、国全体が再就職へ支援的だったので、一般に比べれば恵まれた一面もあったようです。
個人的には同じ就職先でも、時期がずれて全く組織の力を借りなかったので、気楽でした。
しかし条件的な点では、優遇措置は全くなく、相も変わらず好きなようにやれました。本文からもお分かりになられたと思います。
towadamaru7
2017/05/08 22:06

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