青函連絡船の思い出と我が人生航路 104

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    香港




 ジャンク接触



昭和39年(1964)10月 B丸で神戸から香港に向かっていた。当時の香港はイギリス領であり、貿易、経済や観光でアジアの中心であった。

香港に入港予定日の夜明け前に、何かバリバリというような音がして目が覚めるのとQ/M(操舵手)が「ジャンクと接触したので、すぐにブリッジに上がって下さい」との連絡がほぼ同時だった。すぐにエンジンも止まり静かになっていた。

昇橋するとデッキライト、投光器が点いており、付近にジャンクが漂泊していた。たくさんの人々がワイワイ手を振りながら騒いでいた。まもなく夜明けになりよく見えるようになってきた。人の他にもニワトリや犬の動物も乗っている。

これには何家族も乗っているのか、生活の場として動く海上アパートと運送業が一緒になったような形態である。
ジャンクと本船は高低差があり、話が通じにくいがケガ人等いないことを確認した。無灯火で航行していたため視認できなかったのが原因だった。

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     ジャンクの一種


すぐに香港政庁に打電、報告した。双方に支障がなければ、そのまま入港して細かい報告をするような指示があったと思う。時間差が少ないので本社と支店とも比較的スムーズに連絡できたようだった。

入港後に誰と誰が行ったかは忘れたが、事故の顛末の報告に役所に出向いた話では”このような大きな船でしっかりと報告に来るぐらい”と心証はは良かったようだ。

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   香港港内を行き会うフェリー



相手船のジャンクは監督官庁に報告も無く、来るように命じても、どうも異常ないからと来ないようだった。原因は無灯火によるものとして扱われ、結局は本船に対して当然ながら何の咎めもなかった。


この時の当直はC/Oだったが、この人はユニークで大物というか回りの人が計り知れないところがあった。例えば”瀬戸内の島を買いたいが、どれくらいだろうか?もし売らなければ借りられるか聞いてもらえるか”といわれた。

当時は俳優の森繁久彌が、香川県庵治沖の島を買ったとかいう話題もあったが、一般には馴染めない事で真剣にとりあってくれる人はいなかった。


また海運や船員、ポートリリーフ制など労働改善の、アイデアの提案書を作り運輸大臣(当時 現在の国土交通相)、会社社長、全日海組合長や船主協会会長宛に代筆を頼まれたこともあった。コピー機も船に無い時代で、カーボン紙や輪転機を駆使した思い出もある。

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    瀬戸内


船を下りて有給休暇の時に実際に我が島まで見物に来たことがある。島を買うまではいかなかったが、途中から海難審判庁の審判官になられ、当時のさる高等審判庁の庁長まで務められた。

きっとジャンク接触事故の事からヒントを得られたのだろうか?退官後も独特の楽しみをされているとか風の彼方に耳にしたこともある。



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この記事へのコメント

mukasinohito
2014年01月31日 11:39
ジャンクとの接触、何事も無く、良かったですね、無灯火で航行するとは酷いですが、まだ無灯火の漁船や、プレジャーボートも航行しているかも。島を購入したいと本気で思っている、ユニークな人と過ごされて面白かったでしょう、森重久弥さんの島どうなっているのでしょうか。

2014年01月31日 18:56
相手船からは本船の灯火が見えるので、近づくまで点けない事もあるのでしょう。
マラッカ海峡でもあったように思います。
何かスケールが違うようで、面白かった思い出があります。
森繁さんの島も亡くなられてからどうなったんでしょうかね?先日も小豆島へのフェリーから眺めました。
島で生まれ育った私には、むしろ敬遠気味となつかしさが同居している矛盾を感じることが多いです。

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