青函連絡船の思い出と我が人生航路 500

       人生航路




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        粟島から見る燧灘(六島方面)





30年という年月は長く、ときに歴史をぬりかえる。青函連絡船が津軽海峡から姿を消し、今や青函トンネルを新幹線が疾走する時代となった。



連絡船ファンの方々や、船に携わった関係者は、人生の大きな変遷も、珍しくないと考えられる。平成24年(2012)新居浜市で、羊蹄丸の一般公開が、ひとつの転換点になった。



わずかでも青函連絡船の疑問に役立つよう、その翌年3月13日からブログを始め、5年余り500回を数えられるのは、みなさんのご指導や激励あってと感謝している。



テーマは多いが文章に、まとめるのは難しく限られる。内容については、できるだけ正確を期している。船を下り3年間JRに残り、自分の目と耳で確かめ、信憑性はあると思う。


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       昭和40年代の鷲羽山からの眺め



青函連絡船が舞台であるが、航海士として育てられた商船三井や、友人、知人、親戚、ふるさと、そして人のつながり等々は、主題にとらわれずとりあげている。


日本を代表する船会社の、ひとつである商船三井で基礎を積み、青函連絡船に行ったので、外国航路と国内航路を経験でき良かったと思う。


船の一般社会から見れば、商船三井がはるかに格上で、航海士の職としては歴然だった。しかし国をバックの官庁船の特殊性や、内航の雄で地域のスペシャリストとして、一概に優劣を語れない面もあった。


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        就職第1船 大阪商船 ひゅうすとん丸



これらは経験して、分かる部分も多々あった。軽く考えやすかったが、初心に返り学んだ。双方のいいとこ取りで、鬼に金棒をめざし技量の向上に努めた。


職責が上がるにつれ、部下の教育も同じ考えで、目標の設定は高かった。いくら良い考えを持っても、共感する人がいなくては、宝の持ち腐れになる。一航会など利用して、いろいろ広める努力はした。


漠然としか分からないが、安全が売り物の自動化後の青函連絡船も、小さな事故は少なくなかった。機器の安定もあるが、一航会で私たちC/O(一等航海士)が、頑張ったのも微力ながら一因か、終盤の責任事故は少ないと思った。


業務全般では文句をよく言ったが、乗せてくれた船については、3/O(三等航海士)とCapt(船長)で、最新鋭の十和田丸に、2/O(二等航海士)とC/Oでは、2番目の羊蹄丸に、さらにC/Oで新造船の、石狩丸の受取りと、特に良い船に恵まれた。


たびたび述べているように、外航並みにレベルが高い青函連絡船に、外航の長所を取り入れながら、航海士の仕事が出来たのは最高だった。


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          函館



その集大成が最後の十和田丸の周遊航海だろうか。十和田丸全般をあずかる乗組船長の立場では、反対番B組の北海道周遊も含め、全周遊を無事に終えたことだった。


A組船長としても、計画通り余裕を持ち、東京周遊を完遂して、大きな役目を果たすが、全ては翌年の3月13日まで続く。個人的に青函連絡船では、実力や学歴そのた諸々などから、十分すぎる扱いを受け有難かった。



青函連絡船と共に船員に終止符を打ち、ゴールは自分にとり、十分すぎたと思っている。しかし瀬戸内海の島で生まれ育ち、人前で話すことさえできない少年が、たどり着くまでの道のりは、決して平たんではなかった。

      
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最後の船 青函連絡船 十和田丸



勉強はできないし、運動や体力でも劣り、健康も丈夫な方で無かった。自分でひいき目に見て長所も少なかったが、子供ながらに考えが変わらず、人を見る目は正しかったと思う。


成人して乗船後も、ストレスからか痩せていた。暑い地域では対応できたが、寒さはこたえたように記憶する。


結婚後は妻が食事のバランスに特に気を配り、功を奏したのか標準体重になり、体調は大変良くなった。おかげで退職し高齢者になり、現在に至るまで薬は服用していない。



人は一生のうちに人生を左右するような、大きな決断をしなければならない時がある。その場面では熟慮のうえ、悔いの残らない方を選び、いったん決めたら、ジタバタせず進むことが大切だろう。


外航船で同じ船に乗る間は、運命共同体の意識が強く、結び付きは堅固である。なかなか同じ時期に乗下船するのは困難で、再び一緒になるケースが少なく、どうしても希薄になるのはやむを得ない。



青函連連絡船では、全連絡船のプール運用のような面があり、同じ船に乗る確率が高い。下船後は官舎(宿舎)の付き合いや、船舶部門の会議に加え、親睦会や懇親会で同席する機会が多かった。


自然と顔見知りになり、会話のチャンスが多く、お互いに人物が分かる。どこでも人に良い悪いはそんなになく、要は自分と合うか合わないかも知れない。いずれにしても人がよく分かり、仕事できるのはよかった。


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         最近の粟島中学校のあと




ときどき紹介するように、素晴らしい人と仕事ができ、いろいろな方々との縁は良い思い出になる。


幼少の時代から船長で終わる人生の大半を、針路を誤らず導き後押し下さったのは、友人知人はじめ周りの人達であり、家族の援護もふくめ、まさに人に始まり人の巡りに感謝している。





この記事へのコメント

mukasinohito
2018年06月08日 01:22
苦労は有ったでしょうが、悔いのない船員生活を、送られて現在の悠々自適の生活素晴らしいですね。
2/O
2018年06月09日 00:21
ブログ500回おめでとうございます。
毎回の記事を楽しみにしており、時折函館在住の大雪丸K船長にお話させていただいております。
これからも連絡船を柱にいろいろな話題掲載に期待しております。
2018年06月09日 14:32
mukasinohitoさま
年月が経って振り返っておりますので、その当時は当たり前のことをやっていたと思います。
苦労といえるほどか、どうか分かりませんが、悔いなくそこそこやれた印象が残っています。
ただ現在はとても悠々自適とは言えません。かなりかけ離れたもので、現役中にしてきたことに比べても、人生航路の難航は、免れそうにもありません。
そんななかにもブログ本文に書きましたように、人の巡りは感じます。
先日は小学校の同級生数名と、90歳の担任だった先生を囲む昼食会をもち、県内西部に出かけました。
数年前までは、まれにみる高い出席でしたが、最近は本人や家族の健康もあり、全体のクラス会はむつかしくなっています。
できるだけ人の心は、大切にしたいと思います。
返事が遅れすみません。いつも貴重なコメントありがとうございます。
2018年06月09日 15:19
2/O さま
お祝いのお言葉ありがとうございます。
当初は100回ぐらいと思っていましたが、いろいろご期待や激励をいただき、青函連絡船ファンの方々、関係者の皆さんや、友人たちに後押しされ続けられました。

個人的にもいろいろメールなど、いただいてありがとうございます。
在職年数の短い割に、青函連絡船のことは、かなり密度を濃く整理して記憶しました。
しかし年月の経過と、記憶の衰えや、纏める文章力の難しさで、思うようになりません。
大雪丸K船長と、ご懇意のようで、いろいろお聞きできると思います。
なかなか弁舌で、独特の持論と前向きで、面白い話が聞けると思います。
連絡船OB会や、船長会にもほとんど出席のようです。
国鉄では私よりずっと先輩ですが、C/Oや船長で、ほぼ同時期を締めくくってきました。
考え方が異なるので、C/O時代には、侃々諤々と議論の思い出がたくさんあります。
退職後は不思議とよく会い、船長会など訪函した時には、たびたび車で送り迎えをしてくれました。
青函連絡船のことでも、後に検証できた点もありました。
現在もご高説を、文章にして送ってくれますが、筆不精の私は続きません。どうもメールならいいのですがね!

先日は船長OB会のお世話してくれる、C船長と久しぶりにお話して、いろいろ函館の様子もうかがいました。
函館でお会いになられましたら、よろしくお伝え下さい。
コメントありがとうございました。


L28改
2018年06月10日 01:27
「執筆500回」おめでとうございます!
また、30年という節目に感慨深いものを感じます。
継続する事の大切さ、学ばせていただきました。
今後の執筆活動を楽しみに、そしてこれからも陰ながら応援させていただきます。
2018年06月10日 21:51
L28改さま
ご丁寧なお言葉ありがとうございます。
青函連絡船に関わる話題は多いですが、なかなか簡潔にまとめるのは、才能がなく苦心しています。
自分には分っていても、人さまに伝える難しさを、実感して当時を、反省する点もあります。
30年と言う年月を忘れさせられるような、ファンの皆様の熱意を感じ、有難く思っております。
いろいろと応援ありがとうございます。

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