青函連絡船の思い出と我が人生航路 502

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         羊蹄丸の1号支援艇(新居浜で一般公開時)




   かげの大切なもの



大阪の大地震で、痛ましい事故や、多くの被害があった。いつもながら予測や予報が難しく、突然の発生に対応が困難でもある。しかし人災に起因するところは、無くしなければいけない。



地震のような大規模な防災には、とても及ばないが、どうしても船舶の事故防止や、避難対策と重なる点が多い。



特に乗客が多い青函連絡船は、切っても切り離せない重要な課題だった。一時的には事故を未然に防ぎ、次なる対策に非常時の訓練を、念頭に置いたことはこれまでに述べた。



私たち航海士と云えども、訓練など好む者は多くないが、特に客船では避ける訳にはならない。そこは逆転の発想で、嫌なことを好きになり、練度を上げ慣れることだった。



当時の国鉄連絡船の背景に、国労など強大な組合の存在があった。30年以上経った今でこそ、簡単に書いているが、そのころは何事もそれほど恐れない自分でさえ、怖い時がしばしばあった。


中間管理職的な立場は脆弱で、当局と組合の間で、時によりしわ寄せが否めなかった。正当な理由でペナルティーは当然でも、グレーゾーンはあいまいである。


陸上で大多数の職場は、同じ傾向としても迷いは少ないだろうが、船舶は船員法との兼ね合いで、微妙な扱いに直面する場合もあった。いわゆる指揮命令系統に、支障の恐れを感じた。もちろんその辺の取り決めがあるが、すべて賄いきれるとは限らなかった。


2/O(二等航海士)は管理職でないが、管理的な職務に変わりなく、割に自由な立場でやれた。便替わりの計画運休や、待機や入渠前後のチャンスに、救助艇(支援艇)などボートの揚げ降ろし訓練は、積極的にした。


修練が目的であるが、非常時を想定の訓練(操練)であり、ビシビシ命令や復唱により、すっきり指揮命令体制を築く副産物を得た。


ジャコブスラダー(縄ばしご)を使う時に、正面から昇ろうとすると、丸まってなかなか進まないが、横から両膝ではさむようにすれば簡単である。ステップ途中に回り止めの長い棒を、配置していているが、慣れた船員のワンポイントアドバイスというより常識でもある。


もちろん若い船員は、ロープ一本でも上る腕力はあった。オフィサー(航海士)は船尾湾曲部のドラフト観測はじめ、ホールド(船倉)、マストやタンクの昇降が多く必要だ。


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        60個以上積込み状態の救命いかだ



自分も船員で現場に出てから、学校時代よりもむしろ腕の力が、強くなったのも危険防止から、自身を守る生活の知恵と、日ごろ鍛えていたせいかも知れなかった。


ただボート降下訓練(操練)等は、大変危険が伴うもので、相当な覚悟を持って当たらなければならなかった。内外で人命や大ケガを伴う事例もあり、中途半端な対応は許されなかった。


救助艇の降下時の作業員の乗艇は、各船でそれぞれ異なったが、昭和52年11月に海技課長の事務連絡で統一された。サイドボートからサイドボートまで、最低2名の作業員を乗せることになった。すなわちボートデッキとボートが、面一で乗り降りする。





いくら訓練はうまくいっても、実際の場面での対処は、非常に難しく、場合によりほとんど、役に立たないかも知れなかった。


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        投下後に展開した救命いかだ




青函連絡船のボートは救命艇の要件を求めず、あくまで支援艇として、救命いかだとの役割分担があった。いかだをまとめ操る条件で、61話のよう救命艇手や筏の数を減らせていた。



その支援艇の働きは不可欠で、どれくらいの荒天まで、降下から活動が可能か、いつも頭の中で葛藤があった。


結局のところ考えれば考えるほど、絵に描いたボタモチの点もあった。このデッドラインでの総員退船を無事させることは、かなり難しいため、一時的な事故防止に重点をおくしかないというのが、自分の一貫した考え方だった。



また危急の場合に照明があるとは限らず、懐中電灯は必需品で、すぐに携行できるようしていた。作業上から甲板部員は、シーナイフを持つ機会が多かったが、船には非常時どうしても、切らなければロープ類もあった。安全上の問題もあるが、時と場合によった。


船では非常時に、職種により定められた持出し品もあるが、それら以前オフィサーは、ホイッスル(笛)と懐中電灯など忘れられない。これらは地震や災害時の防災にも、通ずるのだろう。


この記事へのコメント

mukasinohito
2018年07月03日 23:27
その頃の国労や特に動労の傍若無人ぶりは良くニュースに為っていたように思います。中間管理職としてはやり難かったでしょう。客船に不可欠な訓練を好きに為ればと前向きに取り組まれた事素晴しい発想で訓練の成果も向上した事と思います。
2018年07月04日 22:24
労使の問題は、正しいとか間違いよりも、折合いといった点が、あったのではないでしょうか?
かなり全日海とは、異質の部分があったでしょう。
国鉄連絡船で、異なる考えがあったなら、やはり船員の立場に軸足を置きました。
これは間違ったとしても、基本的な考えでした。

訓練に重点をおいたのは、一石二鳥だったと振り返っています。

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