青函連絡船の思い出と我が人生航路 541
青函連絡船 十和田丸(サイン入り栄光の航跡より)
小学生から船長になるまで
小学校の文集の設問に「外国航路の船長になりたい」と書いたが、それほど強い意思が働いたわけでは無く、周囲に合わせたというのが正しい。
すでに述べてきたように、瀬戸内海の小さな島で、当時は船員が多かった。船の大小や期間を問わなければ、同級生の男児の半数が、船に足をかけたことになる。
一言で言えるほど単純な道のりではなかったが、31年前の3月13日に青函連絡船の廃止に伴い、フラッグシップと言われた十和田丸の船長として、船員生活の終焉という宿命を背負うことになった。
外国航路ではなかったが、国内の船舶事情や、当時として大型客船など勘案すれば、格付けでも遜色がなかったと考えていた。たまたまスタートと、ゴールが合致したようだった。
平成24年(2012)に青函連絡船でも、ゆかりの深かった羊蹄丸が、愛媛県新居浜市に回航という、予期せぬ出来事が起きた。さらに一般公開の後に諸般の事情から、香川県多度津町で最後を迎える事態になった。
新居浜から多度津の航路は、当然ながら古里の粟島を回り、あたかもあいさつに来てくれたような運命となった。この頃はじっとしておられないような、複雑な心境でよく分らなかった。
新居浜高専での講演や、新居浜港で一般公開ボランティアガイドの、お手伝いなどを通じて、関係者の皆様や、連絡船ファンの多くの人々の熱意を感じた。
青函連絡船 羊蹄丸 (栄光の航跡ポスターより)
当初はお断りしていた講演はじめ、出来る事は全てお受けすることが、自分の最後の務めと、青函連絡船への恩返しになると考え行動した。
そのひとつの方法が、ブログで発信ということで、翌年の平成25年3月13日の25周年から始めた。最初は札幌のカメラマンで、金毘羅参りに同行の方が見て下さった。その後は多くの方々に、応援やご指導をいただきながら6年が経過した。
題名のように青函連絡船を主にしているが、その礎となった商船三井での外航の経験、古里や友人、知人から親戚、よろずや志向をとっている。
自分の事が知れるので嫌という知人もいるが、自分には何もそのような大切なものもない。むしろこの世を去ったのちに、こうだったのかと理解されることもあろう。何よりも青函連絡船の記憶が確かなうちに、なるべく残せたらという思いが強い。
やり始めたからには、続けることも大切と思っていた。第100回で打ち切ることにしたため、大きな出来事は概要としてほぼ載せている。ありがたいご要望に接し、回を重ねているが、詳細や本音に近づき、闇の部分に足を入れる事もある。
特に力を入れる訳でもないが、やはり100.200,300,400,500話など区切りは、その傾向にあるのかもわからない。青函連絡船は無限に話題もあるが、どのあたりで止めたらいいかよく分らない。
正味の船の航海は早く終わったが、その後の人生航路は31年も続いた。希望を表した小学生から思い起こせば、忘れるほど時が過ぎて行った。その辺りをお伝えできればと思いながら、3月13日を違った目で振り返った。


この記事へのコメント
結果論としては良かったと思います。
なかなか人生は平穏には参りません。厳しい航海の方が多いと思います。