青函連絡船の思い出と我が人生航路 555
弓削島の砂浜(高専学生が清掃ボランティア)
弓削島
平穏に平成から令和に、時代の移り変わりが行われ何よりである。今年のゴールデンウイークは、いろいろ例年とは異なるものだった。
仕事に関わらない私どもは、10連休もさほど関心も薄い。大きな目で見れば、国とか大きな立場やマスコミが、無理にかきたてているような気がしないでもない。
公平に見るとメリットばかりでもなく、デメリットもあり一概に語れないだろう。日本人は長い休日に慣れず、過ごし方も身についていないため、戸惑うことも多い。それならばゆっくり休みなさいと、天の声かも知れない。
木香バラがさきほこる
大会社や公務員のように賃金や、働き方が変わらない立場ならよいが、下請けや非正規の人たちは、後でそのツケが回ってくる。何よりも報酬をもらう段階で、現実が待っているだろう。
また病人や体調の良くない人には、病院の休みは不安が大きい。こういった心配をよそに、楽しみや働き方など対応を、改善できれば越したことはない。
連休半ばもまばらな通り
毎日が休日のような自分たちは、日ごろ忙しい人々の邪魔にならぬよう、連休は静かに協力?し、なるべく前後に動く習慣がある。
前々回に松山へのドライブにふれたが、中三日おいて出かけた。前号の石狩丸と切り離せない尾道、向島から因島を経由して弓削島へ行った。
4町村が合併した上島町の中核、いわゆる役場がある。愛媛県ながら約3分のフェリーで、因島(現尾道市)と結ばれ、生活圏も広島県に近い。町内の島は相互に、橋や船で結ばれている。
家老渡~上弓削フェリー
母校があるため時に訪れるが、初めて家老渡から上弓削航路に乗った。これは民間会社で所要時間が少し長いが、他方の町営航路と、共存しているようである。
インランド・シー・リゾート フェスパと、銘打った以前からのホテルも、今月からある情報誌に初登場した。名実ともに伴わなければと、地元の声もあるようだ。
ホテル(右上)と弓削商船高専の寮(左)
昔のきれいな砂浜も、砂の減るのを防ぐのは至難のようである。たまたま弓削商船高専の学生が、ボランティア活動で砂浜の清掃に当たり、毎週火曜日の恒例の行事となっていた。
久しぶりにゆったりした気持ちで、学校や周辺の海岸を散歩した。案内してくれたのが、かつて高専で教官と、練習船弓削丸の船長を務め、定年後もふるさとの島に住む、同級生なので全てよく分かった。
くしくも現在の船長は、青函連絡船の航海士だった知人らしい。この世界は広くて狭いが、会う時間はなかった。
イノシシが掘った穴がいたる所に
島の大きな問題にイノシシの被害が、クローズアップされていた。いたるところイノシシが掘った穴があり、防護ネットなど張っているが、効果が少なく戦々恐々である。
この地から我がふるさとの、粟島が燧灘をはさみ相対している。視界がよいと高見島もよく見えるらしいが、この日はあいにくぼやけて見えなかった。
天気が良ければこの先に粟島が見える
弓削島と粟島は関連が深く、友人はいつも注視しているそうである。粟島商船学校のあった時は、兄弟校のような関わりがあり、廃校当時の在学生の多くは、弓削商船に移籍した。教職員や卒業生も、互いに知り合いが多かった。
少し横道にそれるが、私たち商船校の同級生は、遠慮なく長い付き合いでもあるが、やはりけじめが必要で、ある領域は越えない風習である。
かなり昔になるが、遠く離れたところから、里帰りをした友人がいた。あまりに懐かしく喜び、飲みすぎも重なり帰省先の、親せきの家も分からなくなる事態があった。
携帯電話の普及しない頃で、田んぼの中でお手上げ状態に、ひとりの仲間が最も近い自宅に泊めざるを得なくなった。
まず公衆電話を探し、奥さんに頼み込んだようだった。何十年ぶり?に嫁入り布団を、用意されたが、それまでアドバンテージを保っていた友人も、この一件で攻守逆転し、奥さんにかなり借りができたと想像した。
やがて当人の記憶が回復し戻ることになったが、覆水盆に返らず、大きな借金は残った。本尊さんは覚えていないのか?忘れたふりか話題には乗らない。
ひとつの例外であるが、ひと組の友人ご夫妻には、昔から各地で大変お世話になっている。たびたび泊めてもらい、奥さん手作りの料理でご馳走になった。
松山への単身赴任では、中継点にコーヒーをいただき、「もう少し長かったら、大切な友人をなくしていたかも知れなかった」と妻が冗談交じりに話していた。
島に広大なエリアがさすが高専か
今回の弓削訪問は、学校時代からの付き合いや、信用から言っても特例だった。石狩丸受取りの時に弓削を訪ねたのが、私どもと夫婦同士の初対面だった。
夫婦同伴の同期会などを通し、奥さんと妻が妙に馬が合い、付き合いが深くなった。というか奥さんの妻に対する思い入れは、女が女に惚れるそのもののようで、お世話になった。
奥さんは料理がうまく、島の人たちの世話をよくしていた。詩吟はいまだに各大会で好成績を上げ、地元で教えている。そのあたりの共通点や考え方が、似たせいもあったようである。
妻たちの強い結びつきから、リードされる形に、歳ふりてマイルドな同級生として、楽しく昔を語り合い世話になっている。クラスメートに限らず、いずこの家庭も女性で決まると言っても過言でない。
帰途は最初からルートを変え、佐島、生名島と橋を通り、町営航路から因島に出て、因島南ICから今治へ向かい、しまなみ海道を全線走ったことになった。
伝統の松原も松の代替わりが進む
途中の今治バイパスは、一時的な雷雨で見通しが悪かったが、昔は仕事で慣れた道路なので、慎重に走れば大丈夫だった。松山道や高松道は、つい数日前に通ったばかりだった。
長距離ドライブは、無難に終わったが、古い車のひとつの問題点が浮き彫りになった。このあとにテールランプを修理することになったが、部品がなくて困った。
26年も過ぎると部品は、すでに製造中止になっており、全国のディーラーにも在庫がなかった。やっとのことでリサイクル品があり、何とか修理できたが今後も恐れがある。
簡単に共通部品で可能かと考えていたが、云われてみればちょっとしたものが、かえって適合せず、車検に合格できないケースがあるらしい。
インターネットなどで手に入れる方法は、ディーラーでは取っておらず、個人で手に入れても、持ち込み修理はしないらしい。やはり保障の関係で、無理らしくお手上げである。
高齢になり運転能力、車の耐久年数、さらに部品供給と、三次方程式のような問題が起きた。まるで青函連絡船末期の、運航要員の確保、青函トンネルの開業時期、そして船の耐用年数の三次方程式の、小型版のような状況に、頭を悩ましている。
地元の役所も10連休に閑散と
わずか数日で700㎞程、走れたかと思えば、一難去りまた一難のような、人生航路の負荷はだんだんきつくなり、なかなか許してくれないようである。
この記事へのコメント
なんとなくそれまでにと思い、思い切りました。
大変意義がありましたが、高齢者の運転は特に気を付けなければと、自分に言い聞かせています。
確かに操船も、車の運転も同じでしょう。
コメント返信が遅れまして、すみませんでした。次号に詳しく述べさせていただこうと、考えていますが、なかなか頭の中がまとまりません。