青函連絡船の思い出と我が人生航路 577

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   ウラでは何が


青函連絡船が廃止になり30年を超えたので、今さら新真実が出ても特に差しさわりもない。一般商船も含め何でも書ける自由な立場であるが、現役の船長や航海士はもとより、船員の仕事がやりにくくなってはいけない。

また船は非常に複雑にできており、事故や事件を引き起こすヒントにならないよう、微妙な部分について注意を払っている。

船は出港してしまえば、基本的に船長の指揮下に入り、外部と遮断されることになる。外航船舶はその線引きが鮮明であるが、青函連絡船のように狭い区域と、短い航海時間では表立った変化はない。

船長と云えども一定の資格を備え、会社が選任すれば、誰が乗ろうが誰を乗せようが、その人物まで制約されることはない。



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十和田丸船長を拝命し東京周遊を控えた頃から、何となく空気が変わるのを肌で感じた。能力とか技術は別にして、いわゆる人物などに関わるものだった。

北海道知事を先頭に、ほとんどの公共部門から、主要な大手企業はじめ、いわゆる「オール北海道チーム」による、大イベント「北海道フェアin HARUMI」に、十和田丸が当たる予定だった。

新聞やテレビでの取材が増え、何となく窮屈になった。終航が近づき注目が深まり、連絡船全般の傾向だったが、それを割り引いてもあり余った。

当時は飛ぶ鳥を落とす勢いの、道内一の都市銀行拓銀(北海道拓殖銀行)も、主力メンバーだったが、表向き名前を出さなかった。のちに経営破綻するが、その時は知る由もなかった。

仮に負債など調査されても、せいぜい拓銀から借り入れた、住宅ローンぐらいであるが、小さなマイホームと、バランスシートはイーブンだった。

それまで船の仕事さえやっていれば、何の問題もなく静かに市民生活を送られたが、足元に注意を払わなくてはならなかった。

これは青函連絡船が廃止のあと、陸上勤務になり著しく増え、一般の人々から知られる皮肉な結果になった。自分としてはひっそり、静かな方が性に合っていた。まして青函連絡船と共に多くの仲間が去り、自分がクローズアップされるのは本意でなかった。



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(当時の多くの新聞から、2紙を取り出し添付)


読売新聞昭和63年4月2日.jpg


この記事へのコメント

mukasinohito
2019年07月29日 22:21
「まして青函連絡船と共に多くの仲間が去り、自分がクローズアップされるのは本意でなかった」ありますが、マスコミの方々は、陸に上がった河童がどの様に成って行くのか興味津々でしたのでしょう、ことに直前まで北海道フェア等で活躍していた船長でしたから。船会社での陸上勤務なら誰も興味を示しませんが、畑違いの職種に就いていくのですから、極論ですが野次馬根性が半分以上有るのではと愚考いたします。添付されている二紙とも良い記事だと思います。
towadamaru7
2019年07月30日 22:21
まったくmukasinohitoさんが、おしゃる通りと思います。
C/Oとか船長を務め、バランス感覚のいい人ならば、例え陸上勤務でも、何ら心配はないと思いました。
たんに函館と青森を走るだけの、オフィサーでは務まらないことでしょう。