青函連絡船の思い出と我が人生航路 572

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      手紙



ネット社会の現在からは、およそ考えられないかも知れないが、むかし外国航路の船員は、手紙ぐらいしか連絡手段がないと、言っても過言ではなかった。



それだけ手紙にかける愛着と、期待は大きかった。長い航海を終え外国の港へ、着いたときに受け取るものには、誰しも格別な思いがあるようだった。



それもエアメール(航空便)になるので、そのあたりのポストに投函できず、郵便局まで足を運ぶ必要があり、料金も高く簡単でなかった。



さりとて安価な船便では、同じ日数を要し1航海遅れで、受け取ることになり意味がない。いわば航空機と船のスピード、すなわち所要日数の差を利用して、届くようなものである。それでも両国の集配状況でも異なるが、入港予定の1週間前には出さなければ、受け取れないことになるようだった。


船乗りの奥さんは手紙を書くのは、必須イベント化し宿命だったのだろう。もっとも留守宅と船をつなぐ、ライフラインでもあった。何かの都合で届かないと、心配事は増え機嫌も悪くなり、周囲でもすぐわかった。



若く独り者の身でも一人だけ来ないと、かわいそうと親がよく手紙をくれた。自分からも家に様子を書いて安心させ、友人へ珍しい所から絵ハガキを出せば、消印などから記念になるため、いくらか出した記憶がある。


女友達にも外国のエージェントの連絡先を教えたこともあったが、ほとんどもらった覚えはなかった。今のように簡単でも書けないのに、あれだけ面倒な手間をかけよく分かるが、何よりもそれほどの思いが、なかったのが正しいだろう。


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危急の時など無線電報もあったが、電報を受けてもどうにもならない。銚子無線か、長崎無線を経由し、船舶通信士がトンツーと電鍵を、たたき海岸局通信士と交信した。船の位置や電波状況により、時間を要し料金も普通電報の倍額だった。
モールス信号が廃止になり、時代とともに衛星電話などが、発達したようであるが、料金が高いことには違いなさそうである。


たかが手紙とは言えない、船員にとって大切なものだった。歌詞の意味合いは違うだろうが、そのあと昭和45年(1975)に、由紀さおりさんの名曲「手紙」が、ヒットしたようである。


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この記事へのコメント

mukasinohito
2019年07月17日 23:40
かっての船員と手紙の関係、その他の色々な連絡手段、楽しく拝見しました。本当に現在のネット社会では、考えられない様な環境だったのですね。由紀さおりさんの「手紙」すっかり、忘れていました、大方半世紀も前で、歳月の早さに驚いています。
towadamaru7
2019年07月18日 14:36
船乗りの家族とかけ橋で、宿命の糸かも分かりません。
個人的に家庭を持ってから、外航が短かったですから、あまり言えませんが、一般論でいえば船乗りの奥さんは、大変だったと考えていました。