青函連絡船の思い出と我が人生航路 589


FA000047-3.jpg港口にかかる津軽丸.jpg





   受取りのチャンス
船乗りにとり新造船の受け取りは、勉強になり名誉でもあるが、タイミングや状況に左右される。

青函連絡船は昭和39年から41年にかけ、津軽丸から十和田丸まで7隻の客貨船が、相次いで建造された。

短期間に集中して、これだけ多くの新造船に恵まれると、かなり高い確率で受け取りのチャンスを得た。ダブルハンド(二組制)から考えると、約半数の人が経験できたのだろう。

昭和40年半ばに渡島型3隻、同50年初期に空知丸型3隻が新造されるが、いずれも貨物船で定員も少なく、時期的な間隔もあり、客船に比べるとインパクトも弱かった。

艤装時の受け取りでは、派遣時期や職種で異なるが、使用する立場で手直しや要望を入れながら、理想に近づける達成感や責任感もできる。

さらに重要機器の試運転を通じ、取扱いや応急操作の練度を、上げる最適の場にもなった。この貴重な体験を生かし、青函航路の日常業務に、役立たせられれば良い。


十和田丸_船内各部_船橋ほか_058.jpg




青函連絡船の停泊時間は約55分と短いため、ヒーリング装置など重要機器に、トラブルが発生すれば、出港が遅れダイヤが乱れる。

なるべく早く原因を究明し、復旧させなければならない。そのためには受取の際の、勉強が役に立つことが多い。

シーケンス制御を多用していたため、日頃から理論や実務をよく研究しなければ、対応がむつかしかった。



Dscf0021.jpg函館桟橋貨車積み込み.jpg



慣れも必要でベテラン2/O(二等航海士)に、要領よく原因を見つけるケースも多々あった。理屈よりも体が覚えているようで、場数を踏んだ経験の賜物のようであった。


Dscf1480.jpg可動橋上.jpg








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この記事へのコメント

decchi
2019年09月17日 12:33
 300号まで読み返しました。どこで投稿するか迷った末、先に進んできました。そのつど感想を書いておけばよかったと、これまで沈黙の読者だったことが悔やまれます。さて、貨物船の話題が出たので二つ伺います。
 ①、古川達郎氏の著書「鉄道連絡船百年の航跡」成山堂 P176L12に『「渡島丸Ⅱ型」・・・船そのものは旅客設備がないだけで、構造、設備ともに津軽丸Ⅱ型並みの高速自動化船である。なお、後部マスト下甲板室前後の広々とした船楼甲板は、将来ここに国鉄5トンコンテナ50個を積載する計画であった。』とあります。設計は40年代で貨物が漸増していた時期だったこともあるでしょうが、石油ショックの影響で貨物が減少し始める48年までの間に、コンテナ積載について具体的に話し合われたことがあるのでしょうか。当然地上設備が必要でしょうが函館3・4岸なら可能でしょうが青森の埠頭にはその余地はなさそうですし、55分の折り返しで50個のコンテナを降ろし積みすることは難しいだろうと思います。
 ②、昔から渡島丸Ⅱ型(未改造)に乗ってみたいと思っていたのですが、終航頃の連絡船好きの者の間で、自転車を持って手回り品切符を買えば空知丸に乗ることができるという噂があり、残念ながら自転車を持っていくことができずに試みることはできませんでした。この噂(自転車があれば空知丸に乗船できた)はほんとうだったのでしょうか。

 貨物便に関しては大きな失敗をしたことがあります。昭和52年ごろのことです。閑散期には後部普通船室が締め切り扱いになりましたが、あるとき1便に乗船してなかなか寝つけずに船内をうろうろしていました。船楼甲板から後部階段で降り、なにげなく施錠されていなかった後部船室に入っていくと消灯されていて静かだったので椅子席に座ったところ、そこで寝入ってしまったのです。目が覚めたときには停まっていた船が動き出すような気配がしたのですぐに普通船室を出て行くと、事務掛が驚いた顔で「なんで乗っているのか」と聞きます。こういうわけでというと、この便は貨物船として今函館を出航したところなので青森まで行って折り返すように告げられました。乙系統で後の160便、当時のダイヤでは156便でしょうか、折り返し5便で函館に着いたのは14時10分でした。観光客なら10時間近くを無駄にしたことになりますが、汽車と船に乗ることが目的の旅だったので、貴重な体験だったと思ったものです。このような旅客の降り遅れ事件はめったにあるものではないでしょうが、船長まで報告されたかなぁと今になって気になっています。
towadamaru7
2019年09月17日 23:02
詳細なコメントありがとうございます。限られた範囲しか書ききれないと思いますので、なるべく簡単にお話しします。
渡島丸型のコンテナ積載計画はありました。古川氏の基本計画で、先のことを見据えておられたと思います。
青函連絡船の乗組員としては、GMの大きさなど復原性の特性がありました。
商船三井のS型船も、コンテナの計画で、同様の設計でしたが、結局は本格的な、コンテナー船に移行しました。ちょうど過渡期でした。
おっしゃるような貨物量はもちろん、国鉄コンテナーの発展も、ものすごいスピードで、変遷した経緯から、専用貨車もめまぐるしく変わりました。
ハードとしての造船面では、だいぶ検討されたでしょうが、船サイドでは相互的な面を除き、具体的な荷役時間や、岸壁設備まで言っておりません。私も渡島丸のC/O(専属)で、昭和48年から3年間乗船していましたが、全く跡形もなかったです。

昭和52年ころとのことですね、これは昭和50年11月25日付時刻改正で、運航されていました。
11便(甲便)と第1便(乙便)を、25分間隔で走らせておりました。普通は函館から1D(北斗1号)の優等列車に接続のために、第1便は貨物に落としませんが、11便と統合したのでしょうか。

それらは別として、建前からは貨物便に、お客様が乗ってもらってはいけないことです。
正規に案内して乗船していただけば、何重のチェックもして、こういう事態は起こりません。
しかし実際にあったのですから、とりあえずは事務部の接客が悪かったことになります。
外航船舶ならば、出入国管理、検疫、税関など法的な面からも強制送還されます。

幸か不幸か青函連絡船は、事故さえなければ、現実面ではある程度は穏便に済ませます。

お客様も乗組員も、みんなが困るので、想像すれば事務長からC/Oに相談するでしょう。C/Oは後から船長に軽く伝え、下船して海務部の海技課主席に耳に入れておくなど、考えられます。





decchi
2019年09月20日 09:39
貨物便乗船の経緯について、こちらの書き方が悪かったために乗ってはいけない貨物便に故意に忍び込んだような誤解があるようなので改めて説明いたします。青森から通常の夜行旅客便に乗船しました。夜行なので安眠しやすい席を求めて船内を歩き回ったところ、そこが締め切り扱いであることを知らず、後部の普通船室が消灯されていて静かだったため椅子席の最後部で寝ていたところ、函館到着時に目が覚めずに、また船側も締め切りのため客はいないと思って見回りもなかったでしょうから、目を覚ますことなく、気がつくとすでに函館を出航したところだったということなのです。上の投稿は後知恵の言葉を使っていますが当時はまだ船にのめりこむ前の普通の旅人でしたので、客扱い便と貨物便があることも知りませんでした。そのとき始めてその違いが分かり貴重な体験だったと書いたのです。
towadamaru7
2019年09月20日 23:01
ご質問の趣旨をよく理解せずに、回答して失礼しました。
第1便に乗船されて、そのまま下船されず、もう1航海されたのは、確かに経験できませんが、お疲れになられたでしょう。

その頃の乙系統は、第1便~156~17~18便の循環でした。これでよくわかりました。