青函連絡船の思い出と我が人生航路 638


十和田丸船長ははるかに遠い
梅雨のあけるこの季節になると、変化が大きくいろいろ頭をかけめぐる。青函連絡船へ移籍して、函館の第一歩からの年月は、数えきれないほどである。



青函トンネルの開通により、青函連絡船が廃止になり、十和田丸船長を最後に船から去った。年齢も若く余力を残し、船乗りから足を洗う結果となった。



顛末については触れてきたが、回を重ねあらゆる面から見るため、とりわけ本音に近づいたと思われる。



船の社会ではメジャークラスから、マイナーへ移ったようなものであるが、それは本人の勝手で、業務には全く関係ない。




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免状が同じで1クラス上級生を追越すことはできないし、下に追越されることもない不文律がある。ことさら保守的で頭の固い国鉄連絡船で、生きていくには相当の覚悟と、粘りが要ると感じた。



いわば「どこの馬の骨か」外様で一介の、航海士から船長への道のりは厳しかった。というより船長など論外であった。



同期生はすでにセコンドオフィサー(2/O 二等航海士)の中堅で、その時サードオフィサー(3/O 三等航海士)実習の自分は、7年以上遅れのスタートである。



いくら追込み型でも容易でなく、国家試験のようにはならない。ただ学校時代の後方指定席から、やれば出来るという変な考えもあった。



すでに海底トンネルは工事進行中で、それも承知の上での入社である。特に昇職の望みも強くなく、船長を目指した手前から、1日でも勤めたらいいぐらいに考えていた。



自分を認めてもらいたいとは考えなかったが、オフィサーの基本的な考え方、理想や技量については、堂々と勝負していい方向に努力したいと思った。



オフィサーの業務は、それほど個人差は少ないので、技量を認められるのは難しい。



これだけのハンディーを背負い、ほとんどの方々が反対だったが、数少ない賛成のひとりと縁があった。




陸上勤務で一緒になった、原籍は商船三井のパーサー(事務長)で、外航パーサーや移民船(客船)事務員の経験もあった。



十和田丸船長になったときには、あのような立派な大型船の船長と喜び、画家でもあり十和田丸を描きプレゼントされた。










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この記事へのコメント

mukasinohito
2020年07月03日 23:29
towadamaru7さん、青函航路に移籍されて順風満帆かと思っていましたが、最初はそうでは無かったのですか、逆境を克服し船長昇進を、早く達成されたのは素晴らしい事でしたね。
towadamaru7
2020年07月04日 22:11
本当に青函連絡船のスタートは、ひどいものでした。やはり途中で変わるのは、難しい面もあるのでしょうか?
仕事の面で苦労は少なかったですが、いわば外的なものでした。
自分でもよく軌道に乗れたと、あらためて感じました。
これまで何度も触れてきましたが、くしくも今日7月4日に函館の地を踏み、明日7月5日が入社日でした。