青函連絡船の思い出と我が人生航路 639

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相思相愛
相思相愛というほどでもないが、いい関係にあった商船三井から、青函連絡船に移るにあたり、いろいろこだわりもあった。



いっそ喧嘩別れならば気を使わないが、応援し送り出されると、会社の名を汚せてはならない考えが強かった。個人であり考える必要はないが、ついつい名門の会社が重荷になった。



歴史と伝統を誇る青函連絡船には、国鉄しか認めない風潮とプライドが強かった。



嫌なら来なければよく、入ったからには従うしかないのは当たり前である。しかし視野が狭いのも、否めなかった。



「郷に入っては郷に従え」と「井の中の蛙大海を知らず」の、なかば相反する克服に努めることになった。



全く無名の航海士がどのあたりから、認められるようになったか、振り返ることがあった。



本分の航海当直は基本に忠実で、船長や乗組員に不安を与えないことだろう。適切な避航法をとり、入港スタンバイでキャプテンへ引継ぎは、当直中の状況のポイントの、的確で正確な報告にあった。



当然キャプテンも陰から注意を払っており、相応の方々は顔や性格を知らなくても、航海士の実力を見抜いたようだった。これらは代務時代の感覚なので、現実には乗組員になってからである。



船舶業務研究発表会などは、考え方や顔を知られるには早道であった。しかし団体で研究の成果を、個人が代表し発表する傾向にあり、苦手なのですることはなかった。



入社後わずか4か月ほどで、青函連絡船を代表する最新鋭船「十和田丸」に、乗せてくれたのは破格の厚遇だった。



商船三井のセコンドオフィサー(2/O)から、サードオフィサー(3/O)なので、メジャーのレギュラーから、マイナーのポジション争いのように、言われる人もいたが、絶好のチャンスであった。



国鉄はありがたいところで、座学から乗船実習まで、有り余るほど準備期間を与えてくれた。民間では考えられないが、規程から実情まで相当勉強できた。



十和田丸では徹底的に連絡船の、すべてを学ぶことに集中し、個性も控えめに静かに過ごし、目立つこともなかった。






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4か月ぐらいで2/Oに昇職し、船員区の代務乗船(予備)を約4か月務め、旧「檜山丸」2/Oとして乗船した。



青函連絡船に足をかけ1年、基礎も築けたので、思いきり行動することになった。少しは知られるようになったと実感し
た。



一つひとつは控えるが、青函連絡船の基本性能や、運航体制はほぼ掌握できた。また船長と航海士ほぼ全員の、名前や顔はもちろん出身地、学校、特徴や考え方が分かった。



本当に力を付け認められるのは、チーフオフィサーになってからだろうか。一朝一夕に分かるものでなく、日頃の努力の積み重ねという方が正しい。



わりに好きなことを言い、時に文句も多かったが、よく周囲が受け入れてくれた。管理部門や上司に恵まれ、その大きな土壌が、自分を育ててくれた最大の要因である。














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この記事へのコメント

mukasinohito
2020年07月13日 22:04
民間から国鉄に転職後一年間は、新職場の雰囲気ややり方を静かに眺めて過ごしたのですか、仕事は航海士だったのでそんなに違うことは無かったでしょうが言葉遣いやらタイミング等で何となく違うことがあったでしょう、陸の職場でも同じ仕事をするにしても上司や同僚の考え方の違いが有りますから、私が思うに外航船から内航船(国鉄連絡船と云っても内航でしょう)そのあたりの違いが一番だったのではと推察いたします。一年たって後、自分の個性が出せたのは、towadamaru7さんの実力だと思います。
towadamaru7
2020年07月14日 21:23
おっしゃるように航海士の仕事の基本は、そんなに変わらないと思いました。
やはり一般船舶と鉄道連絡船といいますか、外航と内航では違いますね。
自分たちにプライドを持つことは、大切ですが、何でも絶対というのは、いただけないし、柔軟性が必要と感じました。