青函連絡船の思い出と我が人生航路 257
鉄道ジャーナル社 86夏の号より
「北の旅情」 1
ジリ貧気味の青函連絡船も、残り2年ぐらいから、取材や撮影の機会が増えた。これは列車など他の交通機関や施設と同じ傾向だった。
八甲田丸B組(次席)船長だったが、ドック(入渠)となれば一人しか要らないため、乗組船長(A)が勤めるのは当然だった。ドックの間は予備として、各船の代務(休暇等の代わり)として乗務する。
北の旅情 (鉄道ジャーナル社・以下この号同)
5月10日大雪丸に乗船し、乙系統であり深夜便(翌日第1便)も取り、乗客が多くなった。おまけに行政監察官4人と、案内の本社職員が乗船し、出入港スタンバイを見たい意向だった。それぞれ高レベルの仕事をされているだろうし、少しでも世のために役立ってもらいたい願いもあった。
やがて青函連絡船もなくなる予定で、積極的にチャンスを提供しており、たとえ夜間でも可能だった。あの広いブリッジなので、邪魔にならない場所で見学してくれれば、操船に支障をきたすことは無かった。
夜の普通の人達に見えない真っ暗闇を、13~14ノット(時速約25km)ほどで防波堤を進入する姿に、不安と感激があるようでも、まずは二度と経験できなかっただろう。もちろん私たちには見えるし、常日頃と同じことをやるに過ぎなかった。
宮脇俊三氏と出港風景(同上)
4航海目の第25便(10:10~14:05)に、鉄道ジャーナル社関係の方が4人乗船、取材の連絡を事前に受けていた。本務ならばいざ知らず、代務でも当たるとはよほど縁があったのだろう。しかし何でもプラス思考として、この仕事をしているから、普通は会えない人々とのチャンスと、前向きに考えるようになった。
紀行作家として有名な宮脇俊三さん、願ってもお会いできない方だった。あいさつ程度の簡単な打合せの後は自由に見ていただいた。
船内の様子
本船は旅客1074名、貨車コキ19両(コンテナー車)750トンを積載し、定時に青森港を出港した。
宮脇さんはで出港してからブリッジ(船橋)へ来られ、総括制御室、案内所、無線通信室や船室、遊歩甲板などあらゆる船内見学をされていた。時々ブリッジへ現われ、さすがに青函連絡船通の、まるで勝手知ったる我家のようだった。
入港スタンバイになると、ブリッジで観察されていたが、3時間55分の航海の中で、いろいろ貴重なお話も聞かせていただき、専門家からテストを受けるようでもあった。
旅情記(同上)
また一流の作家によれば、本当に旅行しているような、リアルな気分にしてくれるものと感激した。運航している裏方の自分達と、見事につながっていたようだ。
のちに「旅と鉄道」に掲載された一部を順次紹介し、宮脇氏や鉄道ジャーナル社への敬意と感謝としたいと考えている。
いずれ続きを





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