青函連絡船の思い出と我が人生航路 559
香雪園の新芽
船長会から函館よもやま話
いくら知りつくした函館とはいえ、数日の滞在ではなかなか落ち着かない。やはり行くからには会いたい人や、逢わなければならない方がいるため、せっかくのチャンスを大切にしたかった。
あまり連絡を広げすぎると、収拾がつかなくなる場合がある。誰もが歳を取り、当時の若者も定年を迎えるほどである。みんなが健康の不安や環境の変化で、行動力が落ちているのも否めない。
大沼公園から駒ヶ岳
ほぼ7~8年前までは、親しい仲間たちは別に会うこともあったが、もろもろから無理と思い、船長の皆さんとは、船長会の楽しいひとときだけに絞った。
ともに津軽海峡の時化を、のりきった青函連絡船乗組員にも、平成の航海はより厳しいものだった。あまりに30年の月日と、変遷は大きくキリがないため、新しい令和に函館の地を踏み、乗組員の功績に敬意と謝意を表し、ねぎらいの言葉にとどめたい。
八幡坂
このような訳で最小限度といえ、どうしても会いたい人達もあった。函館に着き予定を組む、日々になり迷惑をかけた。
初めて渡島丸にC/O(一等航海士)で乗船した時の、3/O(三等航海士)でたびたび登場の、格別優秀な航海士だったが、ここでは関わらないようにする。
湯の川温泉の守護神 湯倉神社
青函連絡船がなくなり転出後も、お世話になり時々会うことがあった。奥さんは気がきき、かしこく素晴らしい人で、妻がほめる一人でもある。
なんとお茶菓子には、私の最も好きなものを用意してくれていた。かなり特色があり、どうして分かったか、相変わらず機転が利くのだろう。
香雪園
ここで何十年か前に連絡を試みたが、できなかった一人の連絡先を尋ねられた。たまたま最近よく連絡するので、相手にも話しておく旨を約束した。戻って電話したら同じような意向に、古い回線が復旧しつつあるが、もともと同じグループでも、よくあることだった。
その時の日差しの良い部屋のような、二人の人生は静穏そのもので、これからの無事な航海を祈るばかりだった。帰り際に駐車場で驚くが、二人が選んだマイカーは、よほどマニアでなければわからない、知る人ぞ知る国産車だった。
湯川寺
次の目的地は近くであるが、厚意に甘え迂回し送ってもらうが、さすが一味ちがうようだった。家人が戻るまで一緒に待つが、あいさつして帰る律義さに、何十年のブランクを感じさせないのには、このみんなが旧知だった。
ここの家はこの人の親の時代に大変お世話になり、函館の後見人といえる存在だった。ご両親は故郷を離れた私たち若い夫婦を、ことのほか大事にして、いろいろ指導や支援いただいた。家にも出入り自由にしてくれ、親戚もほとんど紹介された。
もともと青函連絡船の羊蹄丸が縁で、まだ海のものとも山のものとも分からない時から、二人は必ず大成すると、周囲にも漏らして、少し恥ずかしい気持ちだった。
十分に恩返しができないまま、函館を去ることになったが、代が変わっても同じような関りが続いている。とても足を向けて寝られない立場に、函館へ行けば何をおいても、伺うことにしている。
お父さんの仏前参りは当然でも、体調を崩し入院中のお母さんのお見舞いに伺った。同じ入所中の妹に当たる方も、覚えてくれてすぐに分かった。会えなかったが息子さんから、お礼のメールが届いていた。
つぎは妻同士の付き合いが長く、ある縁から四国旅行で案内、その飲みっぷりのよさは、初めて見る立派さに、健康そのもの頑丈そうな体躯だった。
それが昨年病気にかかり、治療している知らせを聞いた。今年の初めころも電話で聞いた時もあったが、静かに見守る方がよいと考えた。
とりあえずお見舞いに電話したら、つい10日ほど前に亡くなられたと聞く。衝撃を受けたが、急遽お参りに伺うことになった。あまりの変わりように言葉も失ったが、後で考えれば妙に夢に出てきた気がした。
遺愛女子高等学校 中学校
函館市内もかなり変貌しているが、高級住宅地といわれた、杉並町かいわいを、通ることが何度かあった。なるほど変化が少なく、立派な建物が品格を保っていた。
この一角に女子の名門の、遺愛女子高等学校、中学校がある。青函連絡船の子女の多くが、通学したと聞くし、同校出身の女性と結婚された、船員も珍しくなかった。
校内
たまたま催しの手伝いに向かう人に、湯川から杉並町へ、便乗の際に校内で降りた。もちろん初めての経験であるが、さすがに美しく威厳があった。
電車通り散歩しても、昔の店舗が閉鎖になり、新しいものと入り乱れ、様子が変わっていた。函館へ行った時はかつて行きつけの床屋さんに寄り、インターバルに関係なく散髪してもらう習慣があった。
今回も営業していれば予約するつもりが、電車から見ると雰囲気が違う感じだった。散策しながら通りかかると、すでに廃業の様子だった。
今回は前回から、長い間隔があった。ふと隣のテナントの人と目が合い、「4~5年前ごろ止めています。ご主人が亡くなりました」と教えてくれた。やはり人も街も厳しくまわる現実に、無常さえ感じさせられ一面だった。
JR函館駅付近
函館市の人口の減少を、口にする人たちが多かった。住んでいた頃は最高で34万人台、離れる頃でも約33万人だった。少々減っても平成の合併で、ある程度は維持していると考えていたら、約25万人とは驚いた。
市町村魅力度ランキング、全国第1位の函館市も、居住と観光などの魅力は、必ずしも結び付かないのだろう。確かに魅力度第1位の、都道府県は常に北海道である。世話になった北海道の、応援団の一人として気がかりでもある。
一度は消えかかるが観光の目玉によみがえった倉庫群
最近の函館は観光客が多く、金森倉庫まわりや、西部のトレードマークの風景は、人を見る方が多く、静かに眺めるのもむつかしかった。
いろいろな知人が、それぞれ工夫して、案内してくれたが、特に注文するわけでないのに、特色を出しながら、重複しないのも不思議だった。ただ皆さん気をきかせ、住んでいた我家を見せてくれた。
金森倉庫と霧がうっすら函館山
ハリストス正教会や、この辺りから見る函館港が、函館らしさに富んでいる。ローカル色として香雪園は、忘れられない最高の場所である。大きく変わったのは、緑の島で緑地も増え、市民の憩いの場になっていた。当初は俗にゴミの島と言われたが、すっかり変貌を遂げた。
この時期には霧やかすみで、立待岬から津軽海峡の見通しもよくなかったが、帰りの緑に覆われた山道は、何とも言えない良い空気と匂いが最高で、樹木が語りかけてくれるようだった。
変わったドライブコースで、市内でも函館ドックの裏側から、穴間の先端ギリギリまで行った。さらに函館市斎場、外国人墓地などから、メジャーの観光コースに戻った。長年住んでいても過去に一度行ったか、どうか景色がきれいだった。
船も人生も生死の分かれ目のような、道のりは滅多にない。上り便でセットコースの地点である300度1海里地点が、あんなに広く船からとオカ(陸)では、あれほど感覚が違うのを実感した。
穴澗海岸
郊外では江差から、厚沢部、銀婚湯、落部、森、大沼公園、大野、七重浜といいドライブができた。久しぶりの助手席も、安全運転なのでいいものだった。
江差 開陽丸とカモメ島
特に車の少ない新緑の道道は、オゾンがいっぱいで気持ちがよく、窓を開けてよかった。また国道5号線は八重桜が満開で、大沼公園の駒ヶ岳の雄姿はいつ見てもよかった。
最初に出迎え一献傾けてくれた上に、休日にお招きいただいた。奥さんの仕事に疲労や健康から固辞するが、熱意と心に押され甘えることで、迎えにまで来てくれた。
国道5号線を走りながら森方面から駒ヶ岳
子供夫婦に孫の家族5人が加わり、海鮮手巻き寿司にビールで、大事なひとときを過ごした。奥さんの運転で送ってくれ、3人の車での会話はさらに続いた。
家族同士の付き合いとはいえ、全く仕事にかかわらず長く続くのも、妻同士の結びつきが強く、ご主人の誠実な人柄と考え方がある。
青函連絡船が廃止になり、親しかった家族もほとんど函館を去ったが、未だに親しい知人が多いのもありがたい。すべて妻が築いたものであるが、それもいきなり訪ね座敷に上がり、挨拶になる逆が通るほどで、顔を見たらブランクを感じさせない、不思議なものだった。
函館市内の中心部は、市電が便利でよく利用した。ホテルはどちらへ行くにも便利な、丸井(丸井今井)デパートの近くだった。
丸井デパート(中心地にある)
「マルイ」とか「マルイさん」で親しまれる老舗で、催事や市民の待ち合せにもよく利用されるようである。今回も同じ日に知人が3人も行き、何事があるかと思うと、まったく別の目的の偶然だった。
一方で競い合ってきた駅前の、「棒二デパート」は閉鎖になり、運命のいたずらのようだ。
わずか数日間の滞在でも、いろいろなことが見えてきた。新幹線もタッチしただけで、今後の対応がむつかしいかも知れないし、摩周丸の前途も厳しいが、頑張ってほしい。
偶然といえば自分の旅行計画はたっていたが、子供たちが休暇の関係で、道内旅行することになった。道東や道央の予定は早く決まったようであるが、道南は決まらないまま先に出発した。
何日目だったか「お父さんが歩いていたすぐそばを、バスで通り見かけたよ」とメールが来た。どうも湯川地区を散策中だったのか、いくら函館が狭くても、さすが驚いた。夕方打ち合わせ倉庫群で会い、食事して別れた。翌日早朝に一番列車で立つようだった。
船長会に伴う函館の旅は、縁の深い皆さんのおかげで、特に時間的に短い合間を、車で有効に案内され、大変中身の濃いものにしてくれた。
復路は関東地方が大雨でダイヤに乱れがあった。40分ほど遅発になったが、駆け付けてくれた方々と、空港の喫茶の一角を占有し、別れを惜しんだ。
琵琶湖上空
予定では羽田の接続も問題なさそうだったが、珍しいことがあった。接続が怪しくなった頃に、C.Aから「羽田から高松行にこの飛行機が運行しますから、接続は大丈夫です。もし他の機材になっても、最終便を抑えておりますからご安心ください」と恵の言葉だった。
安心して出口へ向かうと、すでに出発予定時刻が近く、高松行きの乗客が搭乗を待っていた。函館からは一人だけで、何かみんなが自分を待つ複雑な気がした。使用機が遅れて到着により、遅れる理由の放送が流れていた。
五稜郭タワー
青函連絡船で言えば「ゼチ」(前便遅着)とでもなるのだろうか? 運用機のローテーションは常であるが、まさか自分に合わせた偶然に驚いた。しかし万一事故にでもなれば、接続したばかりと皮肉な話になるが、結果的に救われ、いい締めくくりになった。
この航空機が函館から高松まで一緒
本来ならお世話になり、会わなければならない人が、まだまだおられるが、諸般の事情で失礼している。もしブログを読まれたら、このタイトなスケジュールに免じ、ご容赦いただきたいと思う。
おしまい








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