青函連絡船の思い出と我が人生航路 600

         青函連絡船 十和田丸       運命 岡山県宇野港と香川県高松港を結ぶ宇高航路が、来月から休止すると報じられた。宇高航路の始まりは国鉄宇高連絡船で、青函連絡船より2年遅れ、明治43年(1910)に就航した。 モータリゼーションの発達に伴い、多くの民間フェリー会社が参入した。昭和6…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 599

       青森アスパムとハーバーブリッジ       帰路へ 函館から青森で八甲田丸と別れ、帰路に就くが昼間は青森市内も分かりやすい。何度か走行した一般国道を、ゆったりと走ると、その土地の雰囲気が分かりそうである。 頂上付近は少し雲に覆われていたが、岩木山が誇らしく見え続けるなか、道の駅…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 598

     八甲田丸とハーバーブリッジ 大きなプラスアルファ いい形でOB会に参加できて、とりあえず一つの願いは叶えられたが、ドライブは先が長く続く。親しい皆さんからは、温かい思いで慰留されたが、さらなる親切に甘えるわけにいかない。 この中には未だ仕事を、持つ人も少なくないから、差しさわりがあってはいけない。…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 597

      ホテルから函館港を望む   ふたつの願い4 いよいよ函館へ 北海道は本州から入植の歴史があり、とりわけ青森、秋田、新潟各県は移住が多かったが、ほぼ全都府県にわたっている。 地域ごとにまとまって移るケースが多く、元の土地の習慣や方言が残り、同じ地名や名称を付けることも珍しくなかった。 国道5…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 596

      小樽港 ふたつの願い3 北の大地へ 函館に住んでいたせいもあり、道内の主要都市の小樽はなじみ深かった。かつて道内の商業や貿易の中心であったが、斜陽化で人口減少が激しく、今や小樽運河に代表される観光の街である。 坂の町のイメージがあり、冬は大変だろうと考えることが多かった。輝かしい歴史を誇るだけに、現…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 595

       かなり沖合を航行 あかしあ ふたつの願い 2 同じ旅客船と言え長距離フェリーの、新日本海フェリーと、鉄道連絡船の青函連絡船では、全くと言えるほど様相を異にしていた。 近ごろは客船の中枢でもあるクルーズに、豪華客船が登場を続けるも、まだまだ外国に及ばない。歴史は古いが戦後はカーフェリーが、早…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 594

ふたつの願い 趣味のひとつでもある長距離ドライブの、望みを持っていたが、自分の年齢と26年を過ぎた車、さらに諸々の状況から、残された時間はさほど長くない。 青函連絡船が廃止され30年を超え、存続が危ぶまれる青函連絡船OB会に、出席できないのが気がかりだった。 春の船長会には時々でているが、よく知る幹…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 593

      コンパスを忘れたオフィサー 世の中は静かに移り変わるようで、実は大きな変化や、想像しがたい事があまりに多い。小さな脳で考えも及ばないが、自分の基準が狂っているのか、疑わしく思うことさえある。 あとを絶たないあおり運転、キャンプ場から行方不明の小学生、夜中に一家死傷事件、地方検察庁から相…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 592

      善通寺本堂       彼岸雑感 青函連絡船運航中も彼岸は、年末年始やお盆ほど盛り上がりがなかった。本州からの旅行も減り一段落つき、短い秋をドライブや旅行にいそしんだ。 各々の連絡船でも乗組員が各組そろい、団体で慰安旅行やレクレーションも、この時期が多かった。 遠く古里を離…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 591

航海士の本文はいつまでも 青函連絡船は地域のスペシャリストとし、航海士もそれに対応できればよいが、それに満足せずに、一般商船のプラスアルファを、常に追い求めた。 裏を返せば船の物差しは連絡船という偏見が、一部に蔓延していたが、広い視野から見ることが大切だった。それでこそ新鋭船に見合う航海士であり、ひいては事故防止につながる。…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 590

   のど元過ぎれば熱さ忘れる 台風15号が千葉県を中心に、大きな爪痕を残し、いまだ完全に復旧していない。国なども最初は軽く考えていて、日を追うごとに事の重大さを認識したようだ。 あの規模とコースの重大さは、第588号などに述べてきたが、尋常でない最大クラスと予測していた。 停電の復旧予測などについて、…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 589

   受取りのチャンス 船乗りにとり新造船の受け取りは、勉強になり名誉でもあるが、タイミングや状況に左右される。 青函連絡船は昭和39年から41年にかけ、津軽丸から十和田丸まで7隻の客貨船が、相次いで建造された。 短期間に集中して、これだけ多くの新造船に恵まれると、かなり高い確率で受け取りのチャ…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 588

台風恐るべし 万難を排して向かった函館、そして青函連絡船であったが、当初はそれほど夢のあるものでなく、むしろ前途多難な船出だった。これまで綴ってきたので、これらは控えたい。 土俵へ上がる前から行き違いが多く、相撲を取らせてもらうまでいかなかった。船や船員が柱の船会社に比べると、国鉄の中の一部で、複雑な組織に責任の…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 587

      天命 テレビや新聞等で取り上げられたこともあり、さらに青函連絡船を見つめ直し、語らいの場を与えられたようである。 遠く近く外に内に関わり方は違っても、青函連絡船がひととき共有された。多くの人から貴重なご意見は、控えめに見ても価値観がうかがえた。 少し時が止まり自分自身を振り返ると、十…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 586

産経新聞千葉版20190826朝刊.pdf産経新聞千葉版20190826朝刊.pdf     産経新聞(千葉版)コピーより    まぼろしの青函連絡船 第九青函丸 池上彰氏の洞爺丸事故に関わる、テレビ放映について書いたばかりであるが、相前後して元同僚で、青函連絡船一等航海士を務めた、安田氏の…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 585

       函館夜景     年金と事故では 先般やっと年金の健康診断と、言われる財政検証が公表された。中身についてとやかく言える立場にないが、何時の場合もよいデータに主眼を置くようだ。 平均的な世帯をモデルにしているが、どれだけの人があれほどもらえるか、大方の人はとんでもないだろうし、平…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 584

      洞爺丸     洞爺丸台風のテレビ放映から 8月25日にテレビ東京「池上彰の現在史を歩く」で、青函連絡船のことが放映される情報をもらい、知り合いの方々にお知らせすることにした。 一斉メールにすれば簡単であるが、昨今の物騒なご時世で、たとえBCCなど配慮しても、アドレス等が漏れたら…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 583

       犬吠埼       怖さにおびえ 今年のお盆には台風10号が通過し、たくさんの人々が影響を余儀なくされたが、自然の力には逆らえない。 青函連絡船は台風と切っても切り離せなかったが、昭和49年4月に「青函連絡船荒天時等の運航マニアル」が制定され、避難など具体的な対応がしや…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 582

        旗竿は取替後の物らしい(新居浜での羊蹄丸)     目障り 大型船は船首甲板の最先端に、旗竿があり普通は社旗を掲げる。青函連絡船ではこのフラッグポールは、もうひとつの役目を持っていた。 中間を三分割に印をつけ、夜間は見張りの妨げにならない程度の、豆球がついていた。出入港が多いため…
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青函連絡船の思い出と我が人生航路 581

           青函連絡船のプロペラと舵        裏のサポート 宇高連絡船や青函連絡船など国鉄連絡船が、自動化船のさきがけとなれたのも、国鉄の造船関係者の、たゆまぬ努力と研究が大きかった。 国をバックに有利な面はあったが、洞爺丸事故や紫雲丸事故など海難事故の反省から…
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