青函連絡船の思い出59

青函連絡船の思い出と我が人生航路

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   燧灘・弓削島沖で試運転中の石狩丸


青函連絡船のラストバッター



船は風浪や潮流の気象、海象の影響はもちろんのこと、不明なファクターにより順調に走ったり、そうは行かないことも多い。人もまたいろいろ変化に富んでいる。ずっと昔に本で読んだことがあるが、人は望む仕事を出来る人は案外少なく、また、ほとんどのサラリーマンが必ずしも満足のいく人事ばかりではなく、どう考えてもおかしいというのが結構あるそうだ。


私は組織の大小にかかわらず、いわゆるナンバー2という立場は非常に重要であると常々考えている。一般会社でそれぞれの部門や部署でもいえるのではないだろうか。船のように指揮命令系統がしっかりして組織で動かなければいけないところでは然りと思う。たとえば一等航海士は嫌な役目もしっかりやり遂げ、トップである船長に雑念を抱かせることなく、しっかりと的確な判断をしてもらうのが大切であろう。


組織学というか、組織のことに興味があり、徳川幕府の幕閣、大蔵省など官僚、、旧海軍、陸軍や政治家そして新撰組の副長土方歳三に心酔するところがあり、かなりの本を読んだり、テレビや映画などをよく見た。



なじみ深い羊蹄丸を卒業、一等航海士となり渡島丸へ転船した。もちろん3番手でB組、辞令上は渡島丸専属一等航海士ということになる。原籍は函館船員区で船員区長の配下、乗船中は船長の管理下になり、一見複雑のようでも通常であり、管理職の第一歩でもある。国鉄の経歴は浅いが商船三井の実績を考慮してくれたのだろう。直接の上司の船長は、かつて羊蹄丸に送り出してくれた方で、結果的に迎えてもらったことで再びコンビを組み、管理職員として厳しい教育や指導を受けることになる。


日常業務に加え労働組合や管理職の勉強、そして運航マニアルの委員としての調べなど結構忙しかったように振り返っている。それから船長も2人も交代があったが、そのまま根を生やしそうだった。あまり気にしないほうであるが、3番手で転船も無く3年目というのも少し変である。人には分からないが自分では本線をかなりはずれているのは実感していた。


常にはっきりした主張をし、言いにくい事もずばり話し自己の方針がはっきりしているから、場合によっては当然ありえることで、こんなときはゆっくり時期を待つしかないと思っていた。


渡島丸型は配船の関係で2~3ヶ月のペースで2運航2組体制になり、その時は2組しか必要なく、外れた乗組員は船員区の予備員として他船の代務で回ることになる。従っていろいろな船、そして各組に乗船するため、多くの人と乗り合わせたり船の特性を勉強できる利点があった。ものは考えようでもある。



約3年で津軽丸に転船になった。客船では古くなってあれこれ不具合箇所もあったが、第一船という事で新造当時の人は少なくても随所に格式とプライドを持つ乗組員が多かった気がした。
MAN型主機を備えスピードも良く出るし、細部では第3船以降と異なるようであるが重要機器の故障は少なかった。夜間の貨物便の火災予防で若干の気がかりがら、徹底的に巡回し事務長にも厳しい対応を求めた。



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               函館空港 (ホームページから)


昭和51年(1976)9月6日,当時第7便函館第二岸壁にまもなく着岸という時に超低空飛行の小型機がかなりのスピードで通過した。マークが日の丸でも米国でもなく変だと一瞬感じた。これがいわゆるソ連のジェット戦闘機ミグ25で函館空港に緊急着陸した事件だった。


交代便だったので下船後すぐに函館空港に向かい正面は制限されるので裏のジャガイモ畑から見に行ったが、すでにブルーシートで覆われていた。かなりの野次馬で、夜にソ連軍が取り返しに来る、いや千歳に米軍がいるから出来ないなどと、かなりの噂話などあったが、何事もなく翌朝を迎えた。こんなハプニングもあり、記憶をたどることが出来た。


昭和52年1月下旬に湯の川温泉で同窓会(新年会)があった。そこで新造船石狩丸の話題になり受け取りに誰が行くのだろうかというまでに及び、冗談交じりに「一航士は私が行きます」と話すと即座にある先輩から「お前なんか行けない、行ける訳ないよ」と諭された。


かの新年会から一ヶ月ほど、津軽丸でかれこれ1年近くになり2月下旬に下船となった。どうも石狩丸に艤装員として受取りに行くらしい。これは一ヶ月前の件の”ひょうたんから駒”ではなく”冗談からコマ”になってしまった。
はっきり時系列的なことは覚えていないが、正式な出張命令が出たり首席船長予定者から打ち合わせの呼出が有ったり、青函局内の各部へ挨拶や打ち合わせ等あわただしく回りはじめた。


2ヶ月余り函館を離れることになり、外国航路では短いが青函連絡船ではかなり長期のスパーンになる。プライベートでも車検の時期であり、早く済ませたり、いろいろな懸案事項も片付けることになった。


確か首席の機関長はすでに派遣されていたと思う。第二次派遣部隊が揃って3月1日17:00函館を出発し東京経由で広島県の日立造船向島工場に向かい15:00頃に到着した。早速急ぐことからしなければいけないが、とりあえずその日から寝るドックハウスの部屋割りから必要であるが、そこは機関長が原案を決めてくれていたので、そのとおりにした。


石狩丸は青函連絡船最後の新造船となる。その首席一等航海士を任されることは有り難いが、その責任も重くプレッシャーにもなる。商船三井のさばな丸で経験したとはいえ三等航海士だったし、会社も異なりそれぞれに対応も違うだろうが、ずいぶん参考になる点もあった。


遠く離れ、どうしても意思疎通が図り難いため函館に事務長を配置し定時連絡を取り事務関係の円滑を図った。向島工場のどこかに臨時の鉄道電話を設置していたが、離れた場所で常時間に合うところではなかったと思う。
青函局の各部課と、技術的なこと、人事面など連絡は多かった。また、直接連絡船に電話して現場がどうなっているか問い合わす場面もあった。



すでに計画図面に沿って船体など主要部分は完成し機器類も搭載されている。主として計器類の運転テストや調整をしながら取り扱いに慣れることが艤装員の役目でもある。特に一般船舶と違うのは、車両甲板の建築限界の調整には特大貨物を含み各番線の調整にはドックも慣れないせいもあり、時間を要し手間取った。すなわち貨車が船内構造物とある空間を確保して接触しないためのものと考えれば分かりやすい。


船の寸法や重量は計画通りか、重心位置はどこかなど実際に移動物を動かし船体を傾斜させそれらをもとに重心測定を行いそれぞれの数値を決定する。このときの重さなど人の体重も搭載物の重さの積算や位置も明確にしている。これをもとにして船の復原性や重要な完成図面の数表の基本になってくる。


また製造過程で運輸局の検査官や船級協会の検査を受けながら進めることになる。出来上がってから測度官により実際に容積を量り積算をして総トン数が決定される。実測のために同じ図面で建造しても総トン数の数値が異なるわけである。。


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    西日光(耕三寺)



海上試運転も製造者(ドック)側の試験、船主(オーナー)試運転、そして正式な海上公試などにより何重にもチェックして確認をする。特にエンジンの出力にしても二度と掛けることのないオーバーの負荷を掛けるテストなどもやる。


アンカー(錨)の投下テストは自分の所管でもあり、かなり手荒な投下やウィンドラス(揚錨機)のブレーキテスト、深海投錨,巻上げなど限界までやってみた。そのほかについても同様である。


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  西日光(耕三寺)


通常ドックの休日は工事がないため船員も現地の観光など楽しんだり、ゆっくり体を休めたりする。私も西日光(耕三寺)を訪れたりした。また母校が近いので久しぶりの巡航船で島へ行き、ちょうど同級生が教官をしていたので卒業以来15年ぶりに訪問した。彼の自宅にも寄り積もる話に花を咲かせた。


そして国家試験受験のため専攻科の半年間、下宿していたお宅を訪ねたら、大変喜んでくれたが、奥さんが亡くなられたとのことで残念だった。仏前参りをさせてもらった。ここへは例の東海道スバルの友と2人で下宿させていただいていたが家庭的で毎夜9時には夜食やお茶をご馳走になり、家族同然にしていただき2人で本当にお世話になった。昨年の島での同期会など島を訪れる度に、子供さんの代に変わっているが寄せてもらっている。遠く離れ失礼をしても、親友が自分の分も穴埋めしてくれているようである。


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       弓削商船高専 (ホームページより)

石狩丸の二等航海士の一人は国鉄に入社したときから、ずっと家族ともども親しくしており、彼の奥さんが向島近くの出身で、ご両親が隣の因島に住まれていた。何もしていないが、日頃お世話になっているということで、二航士夫婦と一緒に私達2人でも招待を受けた思い出がある。


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  千光寺公園  (尾道ホームページから)


4月9日に船長(A,B2人)以下ほとんどの乗組員で金毘羅参りに行きボースンが製作した石狩丸の模型を奉納した。この日は尾道みなと祭り協賛として役員や女優の島田陽子さんが日立慰問の行事で残留の石狩丸乗組員に花束贈呈があり残り部隊を代表していただいた。


確かそのころは彼女は全盛期で尾道を舞台にした「鯛めしの詩」?に主演していた他にチャンネルを回せばどこかで出演と言うような人気絶頂だった。懇談会や残り物に福がありそのものの当番でもあった。


4月14日遅めの夜桜を千光寺公園で夜景を楽しみながら花見をした。当時、元気で馬力のあった通信士の面影が、夜景とともにまぶたに残る。乗組員も第6次ぐらいまで、派遣されたり帰還したり動きもあったが、機器の扱いや艤装の雰囲気を味わったものと思われる。石狩丸が結ぶいろいろな思い出も多い。


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           函館向け関門海峡を回航中の新造船石狩丸



昭和52年4月26日 引渡式で国鉄が受け取った。4月29日 08:30 日立造船関係者ほかの人々に見送られ向島を出発した。 関門海峡をとおり日本海経由航行した。


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             いよいよ青森へ艫作埼灯台(陸から行った事もある)


5月 1日 13:10 函館第4岸壁(有川)着岸  
5月 2日~5日  諸試験、手直し調整をした。
5月 6日 10:10 就航式を終え 第64便(23:10~03:40)に就航した。


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     新造貨物船就航記念

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この記事へのコメント

mukasinohito
2013年08月21日 08:40
一等航海士として、最後の青函連絡船の受取、大任だったですね、無事就航した時は感慨無量だったでしょう
ミグの亡命事件思い出しました、もう遥かに昔のことで
忘れていましたが、着陸前の機影を見たとは、うらやましいです
2013年08月21日 20:50
あんな超低空なのでレーダーに捕捉されなかったのですね。
最後の連絡船石狩丸もやがて客船に改造されます。受け取りも本当に運が良かったです。
decchi
2019年09月09日 16:08
 石狩丸は十勝海洋博で使用された後、ギリシャで活躍している姿を写真で見ました。日本の船は優秀でちょっと前までは東南アジアなどでは50年以上の船齢の船がいたと聞いていますが、石狩丸は2006年にインドで解体されたとのことなので、30年足らずの命だったようです。途上国が豊かになったからか、船舶の近代化がいっそう進んだためでしょうか。
 ところで、貨物船が複数在籍していた頃は、新人は貨物船や旧式船からなどといった序列のようなものはあったのでしょうか。また、旧渡島丸型のように足の遅い24時間交代の二往復船と二・一・ニ往復で休暇が入る最新船とではどちらが厳しい勤務だったのでしょう。

 さて、ようやく現在の587号の一割に当たる59号まで読み返してみました。一度読んではいるのですが、改めて読むと新鮮です。時折記事への感想を投稿しましたが、いちいち返信を記入するのは大変ですから適当に省略してください。
decchi
2019年09月10日 09:28
 愚かにも昨日の投稿を終えてから気がつきました。自分のつまらない投稿を読んでもらうだけでこのブログ本編の進行に支障をきたすことに。あと400号あまり読み進める際には、極力投稿を控えようと思います。ご迷惑をおかけしました。
towadamaru7
2019年09月12日 10:30
たくさんのコメントいただいた上に、このようにお気遣いいただきありがとうございます。
こちらもできるだけ返信はするように、心がけていますが、要領が悪く日常生活も忙しく、思うようにならないことも多々あります。
本編の兼ね合いも考えながら、進めますので、遠慮されずコメントいただければと思います。あえて心配いただけるなら、例えば1日1件とか平均いただければ、なおありがたいです。
ほぼいただいた順に、返信していますが、場合によって遅くなっても、ご容赦ください。

さて本題のご質問ですが、船舶の耐用年数には、種類や航路あるいは使い方によって、大きく差があります。
国鉄では財産管理面から18年としていましたが、ご存じのように終盤は延命工事で、長く使いました。安全上は全く問題ありません。
発展途上国で購入の場合も、その国の安全基準に技術力や、コストも含めた環境面から、総合的に判断されると思います。

青函連絡船も船の格があり、新人は旧型船から始まるのは、当然と考えられていました。これは一般商船でも然り、一般社会の組織も、同様と思います。

特殊な面で国鉄連絡船のサロンクラスは、序列が決定していたので、その船については歴然としていました。問題は旧型の1番手と、新造貨物(渡島型)の3番手は、どちらが上とか、客船の2番手と、新貨の1番(首席)とかの、問題がありました。
人事異動のためにも、一応の不文律がありましたが、たまにこれによれない場合は、例外もありました。

decchi
2019年09月12日 13:50
 優しい言葉をありがとうございました。ただいまのところ170号まで読み返しました。若い号で気になったことについて後の号で触れられていることもあり、全部を読み通すことで分かることも多いのだろうと感じています。せっかくおっしゃっていただいたので、新規の号の場合のほかに何日かに一度くらい過去の号についてまとめて投稿したいと思います。もしそれより後の号に関連事項が掲載されていればその旨ご指摘ください。

 ところで、29号のお返事に「航海日誌は一般商船と違って、専用でした。記入方法も異なっていました。」とありますが、これは青函連絡船専用の航海日誌のことではないでしょうか。こちらの書き方が悪かったのですが、青函航路では専用の航海日誌を使用しているはずなので、周遊の際の航海日誌はどのようなものを使っていたのですか、と言う趣旨でした。
towadamaru7
2019年09月13日 15:56
青函連絡船は周遊時も、定期航路の青函の航海日誌を、使用しておりました。
時に変わった航路の、記事を記載するため、各航海士も初心に帰り、見つめ直してよかったと思いました。
記事の大筋は、前の部分に書き、後ろへ行くほど、突っ込んで書いています。趣旨は同じですが、もしいろいろな意見があれば、自分自身迷っていたのかもしれません。
よろしくご指導ください。

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